【欠如】から始まる自我(エゴ)の世界①
この世界に生きるひとりひとりが、自分自身の中に確かにある揺るぎのないものを見つけ、それを指針にしていかない限り、私たちはいつだって孤独なまま外側にあるものに揺さぶられ、その度に彷徨い、右往左往し、見聞き、経験してきたあらゆる残像に振り回されて生きていかなければなりません。
もしくはそれを避けるべく感じることに対する警戒という防御方法を身につけ演じ続けるかです。
それはどちらも、過去の経験というその全てから、意図せずとも得たり学んできたものが整理されないまま、私たちの内側にフィルターとして作られ置かれてあるがゆえに、私たちに幻想をもたらします。
それが作られた過去とは、今世での経験のみならず私たち人類のDNAに刻まれた歴史のなかにもあります。
あなたが、今、変わりたい、違う景色をみたい、自分にも他者にも愛を見い出したいという意志を持つならば、日常の私たちに訪れる不安や恐れ、怒り、嫌悪感やいらだち、やるせなさといったそのひとつひとつの感情のすべてを、過去の反復と再生という循環から、まったく別の景色に変容することを可能とします。
それは、本当の自分・本質の自分へと回帰していく道のりであり、何かを得るのではなく、傷付き恐れたあらゆるネガティブな感情によってしがみついてきたものから手を離し、見えなかったものをしっかりと認識してから手離すことで訪れる、フィルターの外れたありのままの世界への扉になります。
この世界は愛しかないのです-。
言葉では平たく聞こえるかもしれませんが、体感で捉えるとそれは大きな変容で、まさに世界がひっくり返る衝撃と喜びに満ち溢れ、反応から内側に還ると静かな感動で満たされます。
私たちの本質は、完全・完璧・無限・喜び・自由・豊かさという愛そのものであり、この世界全体もそのエネルギーに包まれています。
それは揺るぎのない事実です。
そして、目の前の現実はすべて自己の内側の投影です。
このふたつがイコールではなくギャップがあるのは、なぜなのか。
それは、わたしたちがこの世界をいわゆる''体験''するために身につける固有の肉体とマインド=自我(エゴ)の土台となる性質が【欠如】だからです。
そしてそれはひっそりとベールに隠されたまま、私たちはこの世界を、自我と一緒になって体験していくことになっているのです。
先に、あらゆる【欠如】に触れ、体現し、学び反応して経験を積んだ、親をはじめとした先人たちに囲まれて、私たちはあらゆる【欠如】がベースのこの社会に生き始めます。
そして幼かったわたしたちも、自我は生きていくために社会に共鳴し、いつの間にか反応を習得し、身につけていくのです。
それは、私たちが、人類が、【欠如】をベースにした世界で体験したものを持ち続け、採用し続け、いまもそれ越しに世界を見ている、現実としているということを意味しています。
感謝をこめて
MARI
hologram
