この世界の認識

現実がどう解釈されて自分に取り込まれているか

他者と共存する世界

 わたしたちの世界は、他者を認識し他者を交え、他者と共存している世界であり、それが社会となっています。それがここに当たり前のようにある地球上に住む人間の分離の世界です。この世界に誕生した瞬間から、私たちは社会の一員となりそこで生きるための術(すべ)を無意識に学んで生きています。

 それはまさに、「わたし」が社会というこの世界で平穏無事に暮らしていけるように、「わたし」は社会と共存しながら、誕生と共に与えられた肉体という命と心を必死に守っているのです。

 何から守っているのでしょう。━━紛れもなく自然の脅威を含む地球上のこの世界、他者の居る社会、からです。わたしたちは無意識に、この地球上で自然と社会と共存して生きていかなければならないと感じていることから、「わたし」に対して対象が生まれ、私たちは常に対象を意識せざるを得ない中で生きているのです。

自分の感情と他者の感情との折り合い

 その結果私たちは、自分の感情を正直に感じるということに対して、自覚なくして不自由な状態にあります。

 それは例えば幼い頃、悲しくて自然と涙がこぼれて泣きたいのに周囲の迷惑になるという理由や、お姉ちゃんという立場から泣きやむことを強いられたり、思ったことや感じたことがあっても口にして怒られることがあったり、学校や会社という集団のひとりとして、納得できずその枠に収まりたくなかったり、気持ちが追い付かずに収まりたいのに収まれなかったり、やりたくないけれどやらなければいけないことがあったり。「不快(ネガティブ)な感情」ということだけに集中してみてみると、自分が居て他者が居るという世界は、自分の感情があって他者の感情があり、人は他者と交わる社会で傷ついて傷付けて、悲しんで悲しませて、驚いてショックを受けて、もうこんな思いはしたくないと学び記憶し、それは結果として自分の自由をも奪っていくことになっていくのです。

 もちろん社会で生きていくために、社会のルールやマナー、規律を守り、他者を思いやり優先し尊重していくことは、互いにとって決しておろそかにしてはいけない大切なことです。人と人が共存するこの場では、他者を不快にさせずに生きていくことを私たちは幼い頃よりもっとも大事なことのひとつとして学んでいます。そうした社会でなければ秩序が破綻してしまうからです。

蓋がされる感情━それが現実に投影される

 そのおかげで、いつの間にか私たちは社会に適応した自分を身につけて人生を歩くことができています。しかしまた、目に見えない自分自身の気持ち・感情に蓋をして誤魔化してやり過ごしてこの社会を歩いています。そのほうが一見、社会は生きやすく渡りやすいのです。お金を使って買い物をしたり旅行へ出掛けたり、美味しい物を食べたり、思考に走ったり。気持ちを誤魔化す方法はたくさんあるため、人は不快(ネガティブ)な自分の感情を捉えて、認識して受け入れて内面と向き合うより、見ないふりをしたり別の何かで入れ替えようとします。また不快という状態を一刻も早く回避するために、人は自動的に思考にスイッチが入ります。不快を回避する手段として思考を採用することが習慣となると、不快な出来事に対する防御反応として常に思考が働いてしまい、感情はまた蓋をされていくのです。

 そうした過去の経験から生まれ、そして気付かないうちに蓋がされたものをいくつも抱えた状態で、私たちはこの地球で社会で生きているのです。他者や社会が悪いわけでも、感じてこなかった自分自身が悪いわけでもなく、これが私たちの自我の自然な防御反応なのです。

 そして溜まった過去の感情は、消えること無く自身の心の奥深くにとどまり、それが源となって現実を作り自分自身に見せていきます。蓋をされた感情は、同様の感情やその経験から生まれた観念・信念・思い込みを見せていく現実を作っていくのです。つまり不快な感情は、無意識に拒絶し感じることを避け続けるという私たち人間の機能ゆえに、ずっと心の奥深くに留まり続け、ループして現実に投影していくのです。

感じて寄り添うことで去っていく━そして現実に映し出されるものが変化する

 当時は幼かったり、またその渦中にあったがために感じてあげることが出来なかったあらゆる感情を、安心安全な状態でいま手に取るように自分自身の中で感じて寄り添い、十分に自分自身の中を通してあげることでその感情はみずから去っていきます。自覚の有無なく、不快という瞬時の認識判断のもとで蓋がされてきた感情であるがゆえに、感じて寄り添うという行為は、シンプルなようでいざやってみようとすると慣れるため難しく感じる方も多くいらっしゃいます。そして俯瞰的にものごとを見ていく視野と、この世界を新たな視点で見るための智識に意識を向けることが、滞っていた感情というエネルギーが流れるのをサポートしてくれます。

 そうした心のお掃除に取り組んでいく中で、過去の経験・感情を通して無意識に拾い上げてきた観念・信念・自己の解釈に気付きます。特に不快な感情とセットであることが多く、十分に感じきると同時にいつの間にか手離されていることもあります。わたしたちの「いま」を束縛し、自由を奪っているのがこの過去の出来事から蓋をされた感情であり、それに付随された観念・信念・解釈なのです。

 その事実を、自身の体験を通して気付き、訪れる現実から見えてくる観念を手離していくと、うまれたスペースに本質から愛という光が射し、自分でも知らない初めて出会うような本質なる自分、他者、この世界が少しずつ顔を出しはじめてきてくれます。そしてそれはこの世界のありのままの姿を認識することを可能にしてくれるのです。