幻想という舞台
何度となく恩寵が触れ、静かで力強い愛と調和の景色がひろがっています。
それと同時に、わたしたちは丸ごとエネルギーであり、それがそのまま意識となっていることを感じています。
そして、自我(エゴ)とは、この世界という舞台に立つ化身であり、演者であることを改めて内側で味わっています。
わたしたちは、本来の自己を忘れて、目の前に繰り広げられるストーリーの登場人物になりきっています。
この世界に誕生した瞬間から、皆が生まれながらに舞台に立つ役者です。
それは配役であり、本来のわたしたちではありません。
すべては、舞台を彩る配役であり、共演者であり、あらゆる観念という共通認識のもとに成り立つ演出であり、美術であり舞台装置とも言うことができます。
そして、その世界観のなかで、個々によって担う魂の性質×魂のテーマに沿った数々の短編ストーリーが、数珠つなぎのように、喜怒哀楽といった感情と共に次々と織りなされ、繰り広げられています。
わたしたちはこの物質世界に入り込み、役にのめり込み、没頭し、美しくもあり険しくもあるそのストーリーに心を奪われます。
家族や仲間と共に奔走したり、喜んだり、悲しんだり、疲労したり、慰め合ったり、感動したりして、【わたし】の人生は彩られていきます。
それは何より、肉体を持つゆえの感覚と感情(マインド)をともなうので、本当の自分(真我)を忘れて演じているという事実に気付くことはありません。
それは、内側から届く、ささやかな便りをキャッチしたとき。
または、自分の居る閉ざされた世界に少しだけ隙間が生まれ、光が射す瞬間をゆるしたときに、その真理を迎え入れるという台本になっているのかもしれません。
ストーリーからふと立ち止まり、歩いてきた道を振り返りながら、その世界に溶け込み、目の前に映し出してきたものを、ひとつずつ両手に取り、確かめていくことは、本当の自己を見つけだし、見い出し、自分だと思っていた者をそのすべてのストーリーから救い始めることを可能にします。
そしてそれは自分だけではないのです。自分ひとりが救われることはありません。
根本から自らを救い出すとき、必ず共に関わってきた多くの人と物事と過去とが救われていきます。
この舞台を、ぐるっと取り囲み、全体を覆い統括しているのが、【欠如】というテーマです。
【欠如】(=無い)が存在するため【在る】が付随します。
そこから、良い悪い・善悪の二元性の世界は生まれています。
常に揺れ動き、変化が可能な二元性の世界に、持続する安堵、持続する安心感はありません。
この世界が、夢の中であり幻想であることの根元は、まさにこのことです。
肉体の誕生、正確には魂が固有の自我意識を持ったのと同時に、舞台に立つわたしたち演者は、この【欠如=無い】が水面下でテーマとして存在している舞台であることを知りません。
【欠如・無い・不完全】それらから派生する【恐れ】は、いつの間にかわたしたちの目の前を空気のように漂い、起伏ある物語を次々と展開させます。
ゆえにこの世の本質であり真理である【完全なる在る】を知りません。【すべては完璧に調和している】を知りません。
自我には、それは分かり得ません。
物質世界に同調した狭い領域の意識-自我意識。
それを取り囲んでいるのが、この【欠如・無い・不完全】というフィルターであり、この舞台に共通した大きな観念です。
だから真理からみたとき、この世界という舞台はぐるっと丸ごと幻想なのです。
(『わたしたちは何者でもない』へ続きます。)
感謝をこめて
Mari
