恐れを手にとる
先日、ヒプノセッション前に、こころと意識の仕組みを聞いて下さった方が、
「わたしたちは追体験をしてきているのですね。」
そうおっしゃってくださいました。
別の方は、それを❝カルマ❞と感じられ、言葉にされた方もいらっしゃいました。
わたしたちは、過去という経験のなかにある、理由あってそこに閉じ込められている感情と感覚の再体験を繰り返しています。
意識を紐解けば、そこにあるのは、わたしたちの祖先を含めたあらゆる歴史上の過去の経験です。
それは、誰か別の人であり、自分ではない他の人とイメージされてしまいますが、祖先は、誰でもないわたしたち自身なのです。
様々な時代のなかにわたしたちは存在し、数えきれない人と出会い、共に生きてきました。
わたしたちは、記憶や認識の有無に関わらず、それはそれは多くのことを経験をしてきているのです。
たくさんの家族に囲まれたこともあったかもしれません。
作物を育てながらその恵みに感謝した人生だったかもしれません。
自然の脅威にも何度となく打ちのめされてきたでしょう。
理不尽な人生もあったかもしれません。
悔しく悲しい憤りを胸に抱えて過ごしていたこともあったことでしょう。
いくつもの過去世を、セッションを通して見守らせて頂きながら感じるのは、わたしたち人類は、たくさん傷付き、そして傷付け合いながら幾多の時代を経験し、歩みを続けているということです。
それが、いまここに居るわたしたちです。
もちろん、互いに愛し支え合い、言い知れない喜びや感動もたくさん味わってきたはずです。
ですが、わたしたちの仕組みと自我の性質を鑑みると、この世界で多くの悲しみや絶望と不安、恐怖、やりきれなさといった感情が生まれる経験をしてきたというまさにそのことが、いまのわたしたちに再び❝問題❞として映し出されます。
それは、
また戦争が起きるだろう。とか、
災害が起きるだろう。ということでは決してありません。
それらが起きずとも、わたしたちは一定の条件下でそれと似たような感情の入り口に立ったり、そうした感覚に飲み込まれそうになったり、実際飲み込まれたりしているのです。
それらは無意識の領域にある、未消化で満たされきることのなかったわたしたちの過去の感情と、❝欠如❞という自我の性質が同調した結果ともいえます。
少し前のコロナ禍でも、わたしたちの大半が、より多くの情報に触れ、不安や恐怖という恐れに苛まれ、その見えない敵と戦い、攻撃したり防御したりしてきました。
恐れは、自我にとって無視できないものです。
自我はあえて恐れを探している。そう言うこともできます。
人類が癒えていない傷を抱えたままであることによって、自我マインドが握りしめている、手放すことのできない恐れ―。
その恐れがぐるっと包囲するのは、
-この世界に生まれたものの、ここは安全ではない。安心できない。
要は、わたし、あの人、この場所といったわたしの生きる世界。それに対する信頼が失われていくのだと思います。
無意識下で蓄積されたものは、しだいに大きな観念となり、わたしたちはこの世界でなにかに恐れ、怯え、水面下で徐々に安心と自由が奪われていきます。
物質的次元の人間的社会はどんどんそうなっている、そうなっていく傾向にあるのかもしれません。
ですが、無意識下ゆえに、それを表面化する、意識化する、認識するということすら容易ではないのかもしれません。
つまりは気づかない、のです。
目には見えない、けれど感じている恐れを、不安を、恐怖を意識していく、手にとっていくことが、本来のわたしたちに立ち還る一歩となり得るのはたしかです。
いつも外側に向けている矢印を、内側に向けて、自分自身に向けて。自分が何を感じているのか、どう感じているのか―。
何を恐れているのか、どう恐れているのか―。
わたしの恐れ、そのいちばんの根元を掴む、見る、とらえる―。
そうしたあらゆる機会、なのかもしれません。
もし、恐れを感じている自分を見つけたら…。
静かな場所で、目を閉じ、深呼吸をして、自身に流れようとしているその感情エネルギーに、優しいまなざしを向けてあげてください。
そして、そのまなざしで寄り添い、声をかけ、そのエネルギーが自分の中を通っていくことをゆるしてあげてください。
流れようとしているそのエネルギーのさまを、ゆっくりと温かい目で優しく見送ってあげてください。
あなたの、わたしたちの意識の奥深いところに、自身を癒す源泉を宿しています。
そこへ手を伸ばし続けたその先で、見かけは超えられ、恐れはみずから姿を失っていくのです。
感謝をこめて
Mari
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