すべては内的体験へ
本格的な夏がはじまりましたね。
さて、わたしたちは身体というものを持って、一体何をしているのか。
身体を使った、まさに体験・経験はどこへ行くのか。
身体をつかって、もしくは伴って経験したこと、そのすべてが内側へ行きます。
何かを見て、
ああ奇麗だな。とか、恐いなぁ。と感じる。
何かに触れて、
ああ冷たくて気持ちいいな。とか、気持ち悪いなぁ。と感じる。
何かが聞こえてきて、
聴いているだけで心地良いな。とか、大きな音でびっくりしたな。と感じる。
何かを口にして、
これは思っていた以上に美味しいな。とか、この味は苦手だな。と感じる。
何かの匂いがして、
お腹がすいたなぁ。とか、近くで火事かもしれない、危ないかもしれない。と感じる。
身体を動かし汗をかいて、
気持ちいいな、爽快だな。とか、疲れたなもうやめようかな。と感じる。
からだは情報を取り込み、マインドという内側へ、ベルトコンベアーのように運ばれていきます。
それがあまりに自然に、当たり前のように。
ただし、見ることは叶いません。
目に見える物質というカタチを伴っていないので、手に取って可視化ができません。
そのため、見逃すことも、逆にマインドと一体化していると勘違いしてしまうことも、どちらも容易にできてしまうのです。
見逃すというのは、ベルトコンベアーで運ばれた先でマインドが受け止めているもの以上に、肉体がキャッチする外側の情報にばかり注視しているため、スルーしてしまったり。
もしくは、何らかの理由でマインドが受け止めていることを、自然に受け入れることができなかったり。
反対に、マインドと一体化というのは、感じているのは自分そのものであり、自分自身はこのマインドだと思い込んでいる状態です。感情や思考に覆われ、それと一体化していつまでもそこから出られない場合。
この世界でわたしたちは、あらゆる体験・出来事を経験しますが、わたしたちを、聖なる意識という原点から見たとき、すべては内的体験のために、内的体験しかしていないとさえ言うことが出来ます。
その時の感覚、感情-。
すべてを、そしてすべては内側でおこっています。感じているのです。
この内的体験こそが、わたしたちが人間である意味をおしえてくれています。
わたしたちが、マインドと肉体という連携したシステムを伴った自我を携えているという意味が見い出せます。
どんな思いでもいいんです。
どんな感情でも、どんな意見を見つけてもいいんです。
どんな感覚でもかまいません。
1000人いたらその人数分の感情の化学反応があるはずです。
細やかなところでは、ひとつとして同じものはないはずです。
他者の感情や一般的な意見に共感できなくても、現実に抵抗や絶望を感じてもいいんです。
それは自然と湧いてくるもの、ベルトコンベアーで運ばれてくるものです。
それを、キャッチすること。意識的になること-。
それと同時に、本当のわたしたちを知ること-。
世界は自我の常識、つまりは物質的世俗的常識、観念にあふれ、そこで生まれながらに生きるわたしたちは、選択の有無なく無意識にそれを取り込んでいます。
握っていることにさえ気付かずに握っています。
どんな感覚でも感情でも、気付いてそれを見守りながら自己という意識のパイプに通していくことで、わたしたちはマインド、それ自体ではないことを知ります。
知ってください。
怒りも、悲しみも、つらさも、悔しさも。喜びも、共感も、嬉しさも、感動も、楽しさも。
そこに快・不快はあるかもしれませんが、良い悪いはありません。
ただ、感情とともに快・不快を感じている。それをキャッチしてください。
【わたしのマインドは、こう感じているんだな。そしてそれを快(不快)に思っているんだな。】
それだけでよかったりします。
自分のマインドにおとずれる感覚・感情-。それが意図的ではないことを知りながら、優しい眼差しで寄り添ってあげることは、
他者の感情に触れたときにも、同様に見守り、時に寄り添うことへと繋がります。
感謝をこめて
Mari
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