ただそこに在るが受容されるとき(前編)
内も外もない。
内側が外側という現実の世界へ投影される。というこの世界の仕組みの片鱗が、【内側も外側もない】へ移行したのもそのときでした。
すべてのものを照らしているようでいながら、それがそれ自身であり、それを創造していた光。
それは、私のハートという内側の場所から出ていき、わたしの外側へと流出していきました。
一見些細でありながら、見逃すことなどできないほどに重要な気づきは、その光の入り口が、わたしのほんのわずかに後ろであったことです。
その光が射す光景は、私が敬愛している今姿無き覚者の言葉を借りるならば、
-この世界に存在するすべてが、
【在ることをやっている最中の】神である。
ということです。
この言葉が示すものと、私が体感した景色に相違は見つからないのです。
そしてそれは、
人間マインドで計り知り得る、
-人間的な善でも、人間的な悪でもありません。
-人間的な健康でも、人間的な病気でもありません。
-ただ、【在る】のです。
【神が在る】のです。
在ったでも、在るだろうでもなく、いま在るのです。
いま在るということは、前にも先にも在るのです。
それがつまりは、祝福です。
その祝福の光は、わたしたちのすぐ後ろから射しています。
そのため、わたしたちはそれを時に体感し、目撃しているだけにすぎません。
それは、いつでも射しています。
ですがそれが意識の中で受容されたときに、許す範囲内で現実がその様相を帯びるのです。
いつでも意識の受容が先で、現実はそれについていきます。
わたしたちは神ではありません。
神になることはできません。
だれも神それそのものでは決してありません。
わたしたちは神の性質、そのすべてを受け継いでいる、いわゆるその【子】であるために、わたしたちのほんのわずか後ろで、ひと時も離れることなく共に在る父の恩寵・恩恵・啓示を目撃するのです。
それは、それが流出したものを体感することによって。です。
それは文字通り、一見分離という見かけをともなったこの世界の象徴でもあるわたしたち人間の肉体と、マインドを通しても可能であることを伝えてくれています。
そして、後ろから射す光は、【真空のなか】を通ることによって、わたしたちは目撃します。
スペースのできた、開かれた道がそれを受容することで、体感するのです。
そのとき、わたしたちが自我とよんでいるこれらは、神を、神の意識を、神の性質を帯びたものを延伸するツールとなります。
わたしたちの前についた目だけが、それを妨げます。
わたしたちの前についた目が捉える人や物事、状況への理解が、それを堰き止めているだけなのです。
後編でまた書きます。
感謝をこめて
Mari
hologram
今日の写真は、バンナ公園の木々の間に射す穏やかな陽の光。


