ただそこに在るが受容されるとき(後編)

2026年05月28日

祝福の光は、いつでも、そして誰にでも等しく射している光であることを、意識は捉えていました。

その景色は、そこにもここにも、どこにも問題は見当たらないことを伝えています。

だからわたしは、へなへなと全身という全身から力が抜けてしまったのです。


問題はないのです。

もともとどこにもなかったのです。

すべては在るのです。


ですが、わたしは、それ、共に在る神の性質-を目撃し、体感し、理解、認識することを、ずっと追い求めてきました。

それはつまり、ほんとうの私たちと、ほんとうのこの世界。

それがどういう性質で、どういうものかということです。

その目に触れ、その意識に触れ、体感を通して認識するということ。この持った心とからだで感じるということ。

それをわたしは、ずっと体験したかった。

なぜなら、【問題はない】を認識できなかったから。

これは、個人的わたしが持ちたくて持った欲求ではないのは確かです。探求の理由はないのです。

ただ、人間マインド的に理由を見つけようとするならば、闇から光を見い出したかったからと、そう言うことはできます。


生まれながらに自己のアイデンティティを自我(肉体と個のマインド)に置かれるという、一見分離した、見かけをともなう世界に誕生し、それと一体化してわたしたちの多くは生きてますが、生きていくなかで問題と感じざるを得ない体感をいくつも経験するのは、自我の土台の初期設定が、私たちの本質である愛-その欠如と不完全さ不安定さからなる性質であるためです。

まずはそれが外側へ投影されていくからです。

わたしたちの見かけである自我を、持ち物ではなく自分自身だと思い込んでいるがゆえに、それがわたしたちの内側に抱えられ続けるその間、その性質を目撃し、体感し、認識し、理解しているに過ぎないのです。


わたしたちの意識をゆで玉子に例えるのなら、

この世界で誕生したあとに認識する自己は、白身の部分で、つまりそれが見かけである自我の部分で、もともと欠如のエネルギーを内的に抱えながら、外側の殻の方向へ向かって人生を進んで行きます。

その先でたどり着くのは硬い殻で、その先へ容易に進むことができません。

そしたらわたしたちは、今来た道をUターンすればいいのです。

歩いてきた道をたどって、そこに落としてきた過去の自分の感情を拾いながら、方向と頼るものさえ誤らずに、本当のわたしを求めて歩き続ければ、時間はかかってもいつかは黄身にたどり着きます。

白身しか知らず、それが自分だと思い込んでいた自我-わたしたちにとって、立ち止まって自分を疑い、顧みて癒していくというその道の先に、黄身の大発見が待っているのです。


それはもともとそこに、在るのです。

それも自分の内側の最も奥に、在るのです。

でもそれは白身に厚く覆われているため認識できなかった。

そして自己意識は生まれながらに外へ外へ向かっていった。

卵の殻にぶつかりこれ以上この行く先が困難になったときに、その意識の矢印を内側に向けることで、新たに歩き出すことができるのです。


読んで頂きありがとうございます。

感謝をこめて


Mari

hologram


写真は、hologramのセッションルーム。

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