フィルターごしの世界
2023年に放送された「いちばんすきな花」というドラマを観た時、衝撃を受けた。
ドラマを観て衝撃ってなかなか経験したことがなく、こんなドラマがあるのかと驚かされた。
こんな風にドラマで癒されたことはなかった。
語弊があるかもしれないけれど、エンタメで、ドラマで、こんな気持ちにさせられて、こんなに癒されるとは思ってもみなかった。
すぐに脚本家に目がとまって、他の作品も観てみた。登場人物たちの繊細で丁寧な心の描き方は、どの作品にも変わらず通じていたけれど、最初に観た「いちばんすきな花」がわたしはいちばん好きかもしれない。
―ドラマ「Tシャツが乾くまで」。
今、その脚本家・生方美久さんが描く新しいドラマが放送されている。もう後半。
生方通のわたしは始まる前から楽しみにしていたが、ドラマのテーマは「フィルター」だとご自身が語っているのを読んで、なおさらだった。
これまでとは局もPも演出も変わって、どんな化学反応が起きるんだろう。という興味以上に、
「フィルターというテーマに、いよいよ踏み込むのか!」という興奮があった。
いままでの作品もわたしから見たら、
【名前のない関係性、他者のレッテル、集合的価値観、無意識的な決めつけ、少数派と多数派、親の影響】あたりを触れて扱っていて、今回のテーマはど真ん中で答え合わせのようにも思えて頬がゆるんでしまう。
―集合的無意識的観念―。
【みんな当たり前のように受け入れて生きているけど、これって本当に当たり前のこと?私は、違和感というか、言葉に上手くできないけど、こう感じている。】
「いちばんすきな花」は、この世界に生きながら生まれたこうした感情を、4人の登場人物たちが互いに打ち明けて、受け取りあってそっと置いていく。そんな感じ。
その感情の描き方、心情表現の描き方がじっくりと丁寧でいて、それだけでカタルシスを感じた。
今期放送されているドラマ「Tシャツが乾くまで」は、わたしの予想の斜め上の内容で、毎週観るたびにドラマの新しい価値観、枠、役割りさえも新たに刷新してくれているようにさえ感じる。
今の時代に現れた本当に稀有な脚本家さんだなと思うのと同時に、どこまでを感じていて、知っていて、描いていくのか、いこうとしているのか興味が湧いてくる。
―個のフィルター。
個を抱えるわたしたちは、各々が見ている現実を現実だと取り込む。
でもそれはその人にとっての現実であり、同じ空間に居るのに、時間を過ごしているのに、夫婦でさえすれ違う。夫婦だからすれ違う。
そして、個のフィルターは、その人の内側で抱えているもので作られている。
それは持って生まれたものだったり、その人のあらゆる過去で経験したすべてだったり。
その内側と、景色や状況や出来事といった外側の情報との化学反応が、感情であり感覚。つまりその人にとっての現実となる。
人の内側に何があるかなんて、他者には分からない。
本人ですら分からないのに。
何より可視化できるものではないから手に取りづらいし、見えたとしても複雑にごちゃごちゃに絡み合っていて、整理が容易じゃない。
そして内側と外側の化学反応の結果も、本人が選べるわけではない。
ドラマで言えば、充は好き好んで失踪癖を持っているわけではなく、本人もその言動をどう扱ったらいいか分からないながら、理性ではどうしようもなくその癖と付き合い今を生きている。
―差はあれど誰もがアダルトチルドレン。
そして、生方作品で顕著なのは親の人物像だ。
今作品の主要な4人の登場人物はいずれも訳ありの親を持つ、いわゆるアダルトチルドレン。
でも、あえて言うならそれが普通だよね。って私は思う。
子に極端に無関心な充の親や、施設育ちのあずさは幾分少数かもしれないけれど、実情を知らないだけでもちろんこの世界に生きている。
そして咲子や樹生のような親は、差はあれどその辺にごろごろとたくさんいる。
アダルトチルドレンなんて名前があると、普通じゃない人枠=一部の特別な人枠、少数枠なカテゴリーに分けられてしまっている感があるけれど、むしろそっちが多数枠だと全然思う。
作家の吉本ばななさんもnoteに記した話題の記事の件でどこかで語っていたように、
【どこの家庭にも何かしらある。ないところなんてない。見えていないだけで。】
わたしもそう思う。
みんな見えないだけで何かしらある。
何かしら必ず親の影響を受けている。
咲子も樹生も。
そしてドラマストーリー全体を通して、その描かれ方が秀逸だ。
日常に溶け込まれているそうした影響の破片が、ところどころに散らばっていて、観ていて引っ掛かるところが、後半徐々に回収されていくという描き方は、視聴者自身もフィルターを持っているということに気づきを含ませてくれる。
―人は傷つくとそこに悪(人)を見つけようとする。
これは探求をしていて気づかされてきたが、生方さんのドラマを観ていても思う。
【人は傷ついたり、不快を感じたり すると、自動的に原因となったであろう悪(人)を見つける】
分かりやすくいえば、自分が悪かったのか?それとも自分以外の誰かか?
自責か他責か。
誰が原因だったか。
ドラマでは、咲子は充を責めながらも(他責)、自分はどうすれば良かったのか充に聞き(自責)、充は咲子は悪くないと伝え、嫌われるのが怖かった=嫌われるようなことだという自認を持っている。(とことん自責)
そしてSNSにあげられる感想をみると、少なくない人が登場人物を通して、誰が善で誰が悪かをジャッジしてしまいたくなってしまうということ。
実際に並んでいた感想のなかには、
「充をあまり悪くないと思ってしまった私は甘いのか?」
「充も被害者なのか?」
「こうなってくると、誰が悪いんだ?」
これが自我を持つ私たち人間の最も重要な、危機管理に対する働きのひとつでもあり、これによって個人の善悪の判断が担われ、それが採用され現実としてしまうということ。
この働きが悪いとか良いとか言いたいのではなく、これがわたしたちの無意識な自我(エゴ)の構造なのだ。
生まれた時からこのシステム上にいて、気づかないうちに善悪に左右させられている。
でもまた、このことを【知る】ことで、これが内側の情報となり、わたしたちの化学反応に変化をももたらしてくれる可能性がある。
―無意識を意識化することで、見えなかったものがみえてくる。
それはとても簡単に言えば、知らなかったことを知ることで【視野が広がる】【見解が広がる】と言われていること。
その結果は、わたしたちがコントロールできない無意識の働きによって善悪というレッテルが貼られ、それによってそこかしこに罪を見い出していた現実を見直す、その判断を疑う機会がもたらされるということ。
そこにある真実だけを、囚われのない心の目でひとつひとつをくまなく見ることができたとき、また別の結論に導かれる。
今作のドラマのなかで特に描かれていると思うのは、
【 人は自分の知っている限られたごく狭い情報の中でしか判断しない、できない】ということ。
そのなかで、この人はこういう人(に違いない)。と決めつけてしまう。
そして、誰が悪者で、誰が善人か、個人の限られた情報の中で善悪の判断をしてしまう。
それがその人にとっての事実=現実となってしまう。
これが、まさにThe自我⭐︎だ。
でもそれは、 それ自体を【知る】ことで個人の現実の変容の始まりという可能性を宿している。
―痛みと悪は別。
人の心に痛みはある。それが傷にもなる。
傷があるから痛みがあるとも言える。
まるでその痛みの原因に思えてしまう他者の内側にも見えない傷がある。
自分の心の痛みも、他者が抱え続けている心の傷も、外からは見えにくい。
過去に負った傷―その原因に思える人もまた、何かしらの傷を抱えているのかもしれない。
ドラマで言えば、充の母親は悪者なのか。描かれてはいないが、おそらく充の母親も、自身の養育されていた環境や何かしらの過去を持っていた可能性があり、その結果ともいえる。
そして充にも心の痛み、傷がある。
充の母親も、充も。咲子の母親も、咲子も。
樹生の母親も、樹生も。あずさの両親も、あずさも。
みんなみんな大小の傷と痛みを持って歩いて生きている。
(4人の中で、唯一施設で育ったあずさが、いちばん自由そうに描かれているのもまた特徴的。)
―みんな自分の内側に痛みを持ったフィルターごしの情報、現実をもとに他者と交流している。
ドラマだから多少のドラマチックなストーリー展開はあれど、作中で描かれているのは、大きくは、
【私たちが抱える無意識的な心のフィルターと、それごしの交流というこの世界】それだと思っている。
フィルターごしだから駄目なんだ。ということでは全くなく、
【誰しもがそういうのを待ってますよ、というのを知っておくと、他者に対して出来事に対して別の見方もできるかもしれませんね⭐︎そして、別の見方=別の現実があるかもしれないということを知ることで、自分も他者も楽になるかもしれませんね⭐︎】
ってことを、画面から投げかけてくれているように思う。
もちろん私のフィルターごしだけれど。
観終えた人が何かしら気付きを受け取る。
無意識なフィルターというのが個々にあるのをなんとなく知る。
そんなドラマになるのかな、なるといいな、と思っています。
―最後に、SNSにあったこんな感想。
「このドラマ、悪人がどこにもいない。みんないい人。充も。だけど、人間誰しも得体のしれない闇を抱えている。心の乾きが抑えきれず、愛する人を傷付け、幸せな家庭を破壊してしまう。人の持つ原罪のあまりの恐ろしさに、僕も社会から逃げたくなった。」
自我はとことん罪を見つけようとする。そこに終わりはない。やり出したら永遠にやっている。
気づきに触れだしたわたしたちは、それがすべて単に【欠如】という自我の土台の性質からなる構造、働きだということに最終的に行き着く。
そこに悪人も罪も無い。
ただ皆がそれを纏っているということ。
それは生まれながらに手にしている、この世界という舞台で用意されたデフォルトの装備道具でしかない。
その構造を知らないままではなく、知って、観察して、理解して、囚われることなく真の道具とする。
わたしたちが自我そのものではないからこそ、それが可能なのだ。
長くなりました。
読んでくださりありがとうございます。
また書きます。
感謝をこめて
Mari
hologram

毎週楽しみで仕方がないのだけれど、同時に最終回に近づいていく寂しさもある。でも物語の最終的な着地を含めてとても楽しみ。
#感想も一人一人の化学反応の結果#社会実験的ドラマ#こればかりはSNSの感想を眺めるのも楽しい#視聴者も試される#この蒼井優ちゃんの顔が物語っている#生方美久#彼女の心理描写が苦手な人もきっといるだろう

