誰も真理から離れていない

2026年10月15日

ドラマ『Tシャツが乾くまで』最後まで楽しみました。面白かった!

ブログを読んで見始めましたと言ってくれた方、感想を下さった方、楽しい時間を共有できて最高でした。

ありがとうございました^^


去年のわたしが大きな恩寵に触れた話しをシェアしたあとに、様々な反応に触れました。

そのなかでも印象深かった言葉。

「MARIさんひとりだけが真理に触れていても…ですよね。沢山の人に届けて知ってもらわないとですよね。そう思いません?」

そう声をかけてもらったことを覚えています。

最初に聞いた時は、少しの驚きに近くて言葉が出てこなく、

「あぁそうか。そう思うんだ。なるほど。」

そう感じている自分に気付きました。

それは、かけられた言葉とわたしが内側で触れているものの相違の発見のような感じ。

でもそれでいて、かけられたその言葉に対して理解もできる自分もいての「なるほど。」でした。

だからこそ、感じている気持ちを上手く表現できないもどかしさのようなものを覚えています。

でもそれはそのあとに、わたしの意識が見ているこの世界が、だれひとり真理から離れてはいない。ということを表していたことに気付きました。


それがリアルで、それが現実という圧倒的な体感。

―真理を知っている人も知らない人もいる。それで何の問題もない。

―真理と共に在ることを自覚している人も自覚していない人もいる。それでも完璧。

なぜなら、

内なる神を見い出している人も見い出していない人も、この世界のすべての人が神の子であることに違いはないから。


この自我の世界をなんとかしなければ。とか。

沢山の人にこの真理を伝えなければ。とか。

ひとりでも多くの人を癒さなければ。とか。

使命感のような肩に力の入った【しなければ】も無ければ、強い欲求の【したい】も無い。

あるのは、みんな完璧に在るんだ。という体感。

それが運ぶ圧倒的な凪。安堵感。穏やかさ。静けさ。そして充足感。

なーんにもしなくても、わたしはわたしで完全で完璧なんだ。

同じように、隣の人も、その隣の人も。遠くにいる向こうの人も完全で完璧なんだ。

もちろんあの時私に声をかけてくれた親愛なる方も。その問いかけも。


その真理がもたらす安堵感、充足感、静けさの中に自分自身がいて、そしてそこに意識が置かれている、その意識に触れているがゆえに自分の外側(現実世界)も同じようなエネルギーに在る。映る。

それは大げさではなく本当に世界がひっくり返ったような体感。

でも、頭では知っている。ひっくり返る前のこの世界も。

―なんにもしなくていいわけないよね。

―問題なんて山ほどあるよね。

―問題のない人なんていないよね。

という世界線。

でも、体感と頭(思考・過去の観念)の天秤が勝負にならない。

そして勝負する必要が見つからない。

どっちが心地良いか。どっちが本来のホームか。どっちが真理でどっちが幻想か。


それは、長い間この世界という自分の外側(=内側)に問題を見てきたからこその驚きであり、脱力であり、 感嘆。

それは何もせずに、ぼーっと待っていたことで訪れたわけでは決してなく。 

自分の内側から流れるものをキャッチして、取り組んできた、その先にあったもの。 


でもそれも全部、わたしの場合に過ぎない。

わたしとまったく同じ現実、感じ方、生き方の人がこの世界に存在しないように、その表現は多様であり無限でもある。

わたしたちひとりひとりが皆、この地で個体を持った神の子であることは、同時に個々で神の多彩な表現をみんなで担っている。

役割りが違えば、それは時にわたしたちのマインドでは理解が難しいことも多々あるだろう。

自我は限られた自己の経験・価値観などからなる狭い範囲でのみジャッヂしてしまう習性なのだから。

そもそも全員が理解する必要性もストーリーももしかしたら用意されていないのかもしれない。

でもその自己に備わっている狭い範囲だけを認識する虫眼鏡のようなレンズを払いのけたとき、空のように宇宙のように広い視野が意識の視野に入ってくる。

そのスペースを率先して空けて、光の侵入をゆるす。

虫眼鏡越しでは間違いに見えて、失敗に見えて、罪に見えて、悪に見えて、

だから嘆き、悲しみ、傷つき、時に誰かを非難、否定、批判してしまったとしても、

それはそのレンズ越しにとっての現実に過ぎない。

自我によって制限された切り取られた部分的な一部に過ぎない。

2時間ある映画の予告30秒だけを目にして、それが自分の心を揺さぶるものだったとしても、その感情のままにそれだけで映画を評価してしまう人はいない。

けれど、面白そうか否かは、たった30秒でも勝手にジャッジされていく。

実際その30秒が、2時間の映画のなかでどんな立ち位置で役割りを持っていて、結果的に最後にどんな自分の感想(感情)として着地するのか。

それは映画を観終わってはじめて味わうことができる。

そしてまた、その映画のカテゴリーが、サスペンスなのかコメディなのかヒューマンなのかを事前に知ることによって、わたしたちはおおかた安心してそれを観ることができるのだ。

わたしたちはここで、皆が個々の役割りを完璧に担いながら、もうすでに達成されテーマが完成されている映画を、ひとりひとりが個別のシアターという視点(意識)で眺めている。そんな世界のよう。


凪のような安堵感。穏やかさ。。充足感。

余計な力は要らず、内側の静けさのなかで寛ぎながら、そこを通っていくものをキャッチしていく。

それが人生を優しく彩り押し運んでくれている。

それは決して派手さはないかもしれません。

多くの人に認められる必要もないかもしれません。

ただそこに満ちたりて在るものを捉えている。

そのなかで生きているという体感。

それは、自我意識のもっと奥に在る場所からしみだしてくる、何かをしていたり、生み出していたり、誰かの役に立っているか否かに関わらずにわたしたちという存在の本質、根底にあるそのものに付与されている。

そう思います。


長くなりました。

読んでくださりありがとうございます。

また書きます。

感謝をこめて


Mari


hologram

島の空と山。生命力に溢れている。荘厳さと神聖さ。

子どもたちを送り出してから、毎朝壮大な自然に囲まれて1時間ちょっとのウォーキングも7年目。

内側の静けさにかえる時間。歩く瞑想。心地良い贅沢。

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