内的体験後の虚無感

2025年10月02日

前回ここでお話しした内的体験と、そのあとを経て、わたしの世界はまるで一変したかのようです。

「わたし」という主観がひろがり、それと同時に今まで学んできたことが一瞬で総括され内側で圧倒的な体感的理解へ運ばれました。

「わたし」という領域が拡がり、いままで「わたし」を指していた感覚的概念が違うものになった。

それが同時に報せてくれるのは、この世界の本当の構造です。

それは、いままで智識として学び、実践と共に実感をもともないながら、すでに知っていると感じていたことでした。

わたしたち自己の本質という、真理の探究と共に、癒しと赦しに積極的に取り組むことを通して訪れた、内なる恩寵によって、何度も感謝と喜びと共に受け取ってもきていました。

そうした真理の智識はわたしのなかで生きたものとなり、根を張り、たしかに徐々にわたしにほんとうの世界を見せてくれていました。

いままで受け取ってきた数々の点と点、そしてそれが短いながらに少しずつ繋がってきた線たちが、いま長い一本の線となり、「わたし」の実相が内的体験としてあらわれたと、そう表現したいなと思います。

そこにあるのは、覚者たちによって語り継がれてきた真理-。

ほんとうのわたしたちと、その構造でした。


【ひろがっていくわたし】を体験したあと、しばらくはそのままそのひろがりのなかでそれを見ている自分にも気付いていました。

少し日が経ち、その景色が薄れると同時に、局在的なわたしに【無】という感覚がおとずれました。

何もない。空っぽという感覚です。

その感覚のなかにいながら、眺めて生活していると、しばらくして【無】は【虚無感】へと変わっていきました。

それは、虚しさ。何をしても意味がないという感覚。そして、脱力。という感じです。

癒しと赦しに正直に、そして真摯に取り組んでいると、何度となくこの【虚無感】に出会います。

赦し癒され、また恩寵によって、今まで主(あるじ)だと思っていた自我マインドに、ぽっかりとスペースが空いた状態が、虚無感、空虚感として訪れるのだと感じています。

そうした期間を過ごしている最中は快適かというと、決してそうではなく。

何をするにも腰が重かったり、何をしてもそこに意味がないように感じたり、いつまで続くんだろうと感じたりもします。

でも、そうした感情もそして虚無感も、それはわたし自身ではなく、わたしという器を通して流れる感情、川の水のように流れようとしている感情というエネルギーなので、わたしの意識と一体化せずに、ただ見つめながら逆らわずに、それが流れきるのを待ちます。

流れてそれは必ずいつか去っていくことを知っているので、自身のなかを通ることを静寂の中で受け入れその時を待ちます。

そうした虚無感を自我マインドの混乱】とイメージしてみたりします。

それは自我の戸惑い、自我の立ちすくみのような イメージで、自我マインドというキャラクターが、今まで座っていたはずの大きな椅子が消えて、行く当てなくあたふたしている様子を想像して、ちょっと可愛いなとクスッと笑う余裕をもちながら、こうした虚無感がおとずれる期間を過ごしたりするんです。


今回は今まで体験したどれよりも長かったように思います。

台所に立つのはわりと好きで、今まではこうした時にも食事を作るのは少し億劫だな程度でしたが、今回は、ほんとに嫌で嫌で、2~3日はしんどさが通りました。

そして、これまでも虚無感が過ぎ去ったあとは、自我が覆い遮っていたわたしたちの内なる神の光がおのずと延伸しわたしの世界を照らしていたように、

この【虚無感】が去ったあと、冒頭につづったような内的体験を通した圧倒的な内側からの理解がおとずれました。


続きます。



感謝をこめて

MARI


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