恩寵-分離はしていない
恩寵とはなんでしょうか。
わたしの感じるそれを言葉にするなら、内的に神を体験すること-かもしれません。
それは、わたしたちの内側に届けられ、目に見えたり、手にとれたりできないものでありながら、今までに触れてきたどんな言葉よりも、明確で確信的で、揺るぎが無いもの。
そして、自我という局在的なわたしから発せられたものではないことが、歴然としている。
その一瞬で、自己のなかに、気付きとも、理解ともなるものが届けらる。
だから内側で受け取られるのだと。
それはまた、真理に慣れ親しんでいく過程で、わたしたちの本質からもたらされる叡智によって、認識されていくものなのかもしれません。
人類にとって優位とされる外側の知覚=肉体の知覚が、みずからその滑稽さに気付いていく-。
そしてその時、おのずと真の知覚が明らかになっていく。
意識である【わたし】は、それが触れていくのを、通っていくのを、受容していくのを、眺める。受け取る。知る。
真の知覚=内的知覚が、わたしたちとは誰かを教え運び、この世界の仕組みを報せてくれます。
今夏に体験した神の報せ。
その圧倒的な贈り物は、【分離はない】これにつきます。
この世界に見る分離は、見かけであるということです。
そのたったひとつの真理が、この世の多くの苦難と困難を溶かしていくのです。
その叡智を、一瞬にして内的理解として受け取るということは、
探求してきたわたしたちにとって、最も特別な贈り物のひとつなのかもしれません。
なぜならその恩恵のひとつに、分離が見かけ、つまり幻想であるがゆえに、その真理への深い理解とともに、この世界から深刻さが失われていくことにあります。
そして、この世界の深刻さが失われたとき、そこに残るもの-。
それが、平安。安堵。安らぎ。喜び。自由です。
分離が現実味を帯びる喧噪の最中では、神の鼓動は知覚しにくいものです。
それが知覚しにくい時はあっても、それが完全に消えてしまうことはあるのでしょうか。
【分離はない】は、静寂さのなかで知覚されます。
静寂、調和、聖なる意識は、いつもわたしの背景であり、それは常に在ります。
背景は光であり、常にこの世界という空間を照らしています。
同じように、それが知覚しにくい状態のときはあっても、それが消えてしまうことはあるのでしょうか。
わたしが静寂を選ぶとき、その知覚はそこで迎えられるのです。
そして、【分離はない】ゆえに、【わたし】の意識と、その目の前にあらわれる世界はつながっているということを、圧倒的な内的理解として、景色として、受け取るのです。
わたしというひとつの意識が、誰でもない自分自身、自己を体験する世界を眺めているのです。
そこに拡がる世界に、わたしはただただ心が震え、満ち足りてしまいます。
わたしが今まで経験してきたこの世界という概念が、黒と白が表裏一体のオセロであるようにひっくり返るのです。
そしてこの感動は、マインドがあるからこそ味わえるという、この精妙さにまた震えるのです。
局在的なわたし-自我が、マインドを備えているからこそ、その感動を体感する【わたし】を経験することができる、ということに。
日々毎日を、わたしという意識の世界のなかで感じ受け入れたあと、眺めて、そこにある自己を見つけ充足し満ちる。
まだこの新しい景色に慣れていない今、それを、丁寧にみて繰り返し、大切に手に取っていきたいと感じる自分を見つけます。
すべての人が、意識から派生しているそれを体感している-。
そのひとつひとつが、そこにあるわたしたちの本質、仕組み、この世界の構造という真理にまさに触れているのです。
それは、今まで見えることのなかった光、感じることのなかった光が、わたしの背後からわたしの世界を射し満たしていて、
そして、その光はずっとそこで今と同じように世界を射していたのだということを同時に知ります。
わたしたちの内なる本質という性質、そこへの溢れる言葉にならない想いと、それがもたらす崇高なこの世界の真理を、静寂のなかで感じるとき、
【ここ】が、形容し得ないあったかいもので、充足に満ちているのを感じます。
また書きます。
感謝をこめて
Mari
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