言葉と思考を超えて
わたしはここで、便宜上セラピストやカウンセラーを肩書きとしていますが、実際は一般的にそこから連想されるそれとは、自分自身では思っていないんですよね。
もちろんそれらの学びを重ね深め、資格を取得し、鍛錬しているので間違いかというとそうではないのですが。
本当の意味でセラピストとは、何者なのか。何を指すのか。心のセラピストを名乗る自己の認識をどこに置いているかというのは、またいつか書ければいいなと思っていたりします。
私の場合は、もともとセラピストになりたかったわけでも、たくさんの人の話しを聞いたり、たくさんの方を癒したりする人になりたかったわけでも、沢山稼いで裕福になりたかったわけでも、セラピストとして名をはせて、有名になりたかったわけでもないんですよね。
じゃあなんなのかというと、長年わたしを駆り立ててきたもの。
それは、【知りたい】ただそれだったんです。
それは、欲求とか願望とか言うのかもしれません。
それは、ひと言でいうと【わたしとは誰か?】です。
それは【人間とは、物質とは、心とは、肉体とはなにか?】であり、
【人間の本質とはなにか?】であり、
【自我とはなにか?】であり、
【内なる神とはなにか?】であり、
【この世界とはなにか?】であり、
【感情とはなにか?】であり、
【過去とはなにか?】であり、
【観念とはなにか?】であり、
【他者とは誰か?】であり、
【恐れとは、愛とはなにか?】であり、
【意識とはなにか?】です。
これらはまとめて【わたしとは誰か?】につながっています。そして、答えとなります。
この【知りたい】は、わたしが自分で生み出したものではないんですよね。
なぜわたしが、長い間ずっと【知りたい】という知的欲求にかられてきたのか、わたしには分からないし、それは別の物に選択できたり、コントロールしようと思ってできるものではなかったんですよね。
いまは単純に、それがわたしという人物が人生で担うテーマ、全体の中での担当分野だったんだなと理解していて、そしてその欲求に疑問を感じたことはあっても抵抗を感じたことはなく、歩みをすすんでこれたんです。
わたしの場合は、少し極端で、それでいて分かりやすかったのかもしれませんが、テーマは違えどそうしたものは当然わたしにだけではなく、皆個々に無意識領域として、コントロール下にない自己に付帯したものが何かしらあり、この地球上にあるもの全てが、そうしたものを抱えている存在だということもできます。
カウンセリング中に、時折り【自由意思の有無】という話しに自然になったりしますが、それは意識の仕組みの浸透具合や、自由と意思というそれぞれの言葉から連想されるイメージ、つまり個々の観念の程度と内容によって、まったくその捉え方が変わってくるので、お話ししていてとても楽しいテーマだったりします。
以前、いつかのお正月明けあたりの時期に書いたブログで、【人ではなくシステム】ということに触れたのを思い出します。
そこには、【個人(を責めるの)ではなく、そこに起因したシステムを見返す。】と書いています。
システムとは、わたしたちのこころ(意識)の仕組みです。
仕組みを知り、頭だけではなくおなかで理解すればするほどに、そこに分離した個人などいないことが認識されます。
分離した個人がいなければ、この世界におけるあらゆる攻撃、罪、支配とその対象は空を切ります。
そして他者ではなく、そこにいるのは自分自身であることを内的に知り、自分で放った矢を受け止めるのは、誰でもない【自分自身】であることを体感していきます。
それは、わたしたちが、わたしたちという存在の仕組みを知り、体感を繰り返していくことで、今までそこに見えていたものが幻想であること-。と同時に、ただただ自己の意識が派生したもの=内側にあるものだけが目の前に映しだされる-。そのことが知覚されていくことです。
【無知】は、幻想を幻想とは捉えずに、恐れを知覚し、不安をあおり、それを真実として取り込みます。
では、その【無知】はいけないことでしょうか。
【無知】であること【気付かないこと】に個人的責任はあるのでしょうか。
決してそうではないはずです。それをコントロールできる誰かがいるでしょうか。
幻想とは何か、真の知覚が認識された場所では、無知を責める者も責められる者も存在できません。
そして当然、そこではどんな罪も存在し得ることができません。捉えることができないのです。
前々回までここに書いた、この夏にわたしに触れた内的体験は、一般的にはもしかしたら一瞥体験や解放という言葉で表すこともできるのかもしれませんが、実際わたしのイメージする、していたそれとは異なっていて、私の中では恩寵のひとつとして受け取っています。
わたしにとって内的体験を言葉にする、この小さなHPのブログに言語化するというのは、息をのむほどに美しい景色を、受け取って下さる縁のある方と分かちあうためその手段として写真におさめ、 それを眺めてもらっている。という感覚だったりします。
当然ですが、見た景色そのままを再現できるものではなく、そしてお伝えするのには限界があるものなのかもしれません。
わたしたちの仕組み上、言葉というのはそこに個々の心象・イメージが先行して伝わります。
そして、内的体験そのものを忠実に言語化できないというジレンマもあります。
もちろんわたしの語彙力や表現力の足らなさも相まってですが、わたしからこの体験を、積極的に他者に話したりすることは家族にもありません。
カウンセリング前後など、尋ねられた場合は快くお応えしていますが、どんなだったかといった詳細は、わたし自身も忘れかけていて、その場で一緒にブログを見返して、へー。と言っています。
そして実際は、どんなだったか、より、【そこから何を受け取ったか】が贈り物だったりします。
そして、その体験を【わたしたちにとって最も特別な贈り物かもしれないー。】と書きましたが、当然ですがそれは、わたしが特別という意味ではまったくありません。
そもそも、「わたしとは誰か?」の探求の道中に見い出した【内なる神】が普遍的であり、誰しもに内在しているという奇跡を、ご縁のある方と分かち合いたいという想いが、hologramを立ち上げた理由のひとつです。
誰しもです。限定された誰かや、特別な誰かという人はおらず、すべては内なる神の働きであり表現であり、称賛は、それそのもの-わたしたちの源、それ以外にはあり得ないのです。
わたしの内的体験は、ブログにあげてもあげなくても、見えない領域で伝播し派生し、どこかで何かしらに繋がり、届き、拡がっているはずです。
わたしのところへも、そうして届いたともいうことができます。
つまりは全体のなかのその働きの一部といえます。
そして、同じように、物質的にわたしと直接繋がり、言葉を交わすことでその贈り物を何かしら受け取っている方もいらっしゃるでしょうし、実際に交わらないまでも、ブログの言葉から何かを感じ受け取って頂けていることを、わたしは、【わたしたちにとって特別な贈り物】と称しました。
実際、内的体験あとのセッションとカウンセリング、そのどちらも共に、以前のものとは異なった感覚がひろがっています。
いちばんは、とにかくわたしの力が抜けていることに気がつきます。
それは、より内なる神に委ねたセッションへと直結しています。そして、セッションを受けている方の体験の仕方、光景、体感、それらにおいて今までには無かったものを、四方八方へと延伸していく光の拡がりと共に一緒に受け取り、見守らせて頂いています。
これまでも、癒しと目覚めカウンセリングを受けて下さっている方からは、ご自身の内側で体感された恩寵のご報告を時折り頂くようになっていました。
「急にすとんと自分の中に。」
「なぜか分からないけどそんな風に教えてもらっているような気がして、それがずっと続いている。」
「自我ではないところからだと明確に感じる。」
そうした恩寵を共有させてもらいながら、みんなに等しく内在する神に感嘆し、称賛し、そこから漏れる深いため息まで一緒に分かち合える時間というのは、かけがえのないものです。
また以前ここで【点と点が繋がり花が咲き始めるのを待っていてください】というような内容を綴った気がします。
そうした時期を迎えている方々のお話しを聞かせて頂く時間は、わたしにとって受け取る時間でもあります。
誰かが受け取った気付きや恩寵、それを分かち合わせて頂くというのは、わたしも受け取らせて頂いているということです。
【分離はない】はそこにもあります。
【わたしとは誰か?】それを追い求め、不要となったものを手放すことに取り組み、赦しの実践と体感を積み重ねてきた先で、その問いの区切りとなる答えに触れたことは、わたしの【心の探求】という章のひとつの幕が閉じたかのような感覚が今ここにあります。
それと同時に、新たなスタート、【始動】という言葉が向こうのほうにあるのを感じたりしています。
始動という言葉に背筋が伸びたり、何か特別なことをしなくてはと仰々しく感じて腰が重くなりそうなところ、それも観念であることに気付いたら、それはもうすでにわたしのもとで動き出しているのかもしれません。
また今年も節目の時期、一年の終わりが近づいてきました。
この一年を、そしてこれまでの【わたしとは誰か】という真理・本質への探求の歩みを、共に関わってくださった方々への感謝と共に振り返ることで、新たな一年と、ささやかながら新たな章を迎える準備にしていきたいなと、そう思っています。
長くなりましたね。読んでくださりありがとうございます。
また書きます。
感謝をこめて
Mari
hologram


