恐れの実在性を問う者
恐れている-。
問題というものがあるとするならば、これだけです。
それは、悪いものでも良いものでもありません。
すべてはそれごしに世界を見てしまうということです。
恐れは、私たちに防御を持たせます。それは人間の自我の習性です。
自我は恐れを【在る】と言い、
真理は恐れを【無い】と言います。
そして、私たちは好んでその恐れというものを見ているのでしょうとも言います。
恐れの実在性を問う者が自我であれば【恐れは実在する】と言い、
問う者が神と分離していない神の子であれば【恐れは実在しない】と言います。
自身が自我なのか、神の子なのか。
その選択は誰がしているのか。
今か、過去か、未来か、どこをみてしているのか。
神の子でない者はこの世界に存在しないにも関わらずそれを選択できないのは、その認識がないことに所以します。
そしてその選択によって、この世界の景色はまったく別のものになります。
自我とは無知なだけ。
自我はシステムに順応しているに過ぎず、こちらも良いものでも悪いものでもないのです。
ただそれは、使うことができる。
使うにはその自我のシステムという構造と取り扱いを知る必要があります。
そうでない限りは自我を使うことはできず、自我に使われ続けます。
もちろんそれでもそれは、多彩な景色を映し出す素晴らしき人生になるでしょう。
ただし、【恐れは実在していない】とは決して言わないでしょう。
目の前の個人的景色に、調和、平安、深刻さの無い自由、普遍的な愛は映りだされはしません。
人は、真理に触れることがなければおのずと自我を、恐れの在る世界を、選択し続けるものです。
それが自我の意思だから。
だから人は防御する。
そして防御ごしの恐れの世界に怯え、回避するためにそれを体感し続けます。
でも、真理はそれは幻想だと何度も伝えます。
そもそもそれはないのだから、ないものが解決されることはないと続けます。
自我と真理-。両者を知り学ぶことで、どちらかを選択するということがはじめて可能になります。
自身が自我ではないと知った者が、恐れのない世界をお預けにするどんな理由があるというのでしょう。
人間の子という立場に未練があれば、恐れの世界に未練がある。
傷への癒しを待っている間は、自我はそこにしがみつくのです。
ひりひりした痛みを手で押さえながら。
まだわたしは癒されていないのだから。
まだこんなに痛い傷があるのだから、
この世界は愛であるはすがない。
そんな世界のはずがないと。
そうでなければなんて滑稽なのでしょう。
あなたが探求してきた永遠なる平安は、ずっとそこにあるのだから。
真理とは、現実とは、不死、永遠性、生命、愛、そして無限の豊かさです。
無限のものを有限にし、限界を決めているのは、いつでも自我のなす仕事です。
真理は伝えます。恐れと愛は共存しないと。
最後の一歩を踏み出すのに必要なものは、神が差し出してくれます。
ただそれを受け取る準備ができたとき、それを知覚するまでです。
読んでくださりありがとうございます。
また書きます。
感謝をこめて
Mari
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