古くて新しい目
一瞥体験をした人が、それから1年間は何もすることができなかった。という手記を読んだことがあります。
日本人ではない女性だった記憶で、彼女の当時のそれと同じかどうかは分からないまでも、似たような感覚を感じています。
もちろんそれはネガティブなものではなく、例えるなら毎日新しい世界と出会っている感覚に近くて。
ゆっくりと、でも確実にこれまでの世界が刷新されていく様子の新たな段階を目の当たりにしています。
その毎日を、どんな小さなことも見過ごすことなく、自分で自分を欺くこともせずに、手にとりながら誠実に歩んで行きたい。
それは時折り、内側からのお知らせと共に、まるで遠くで光る雷のように、ほんの一瞬の眩さのようなものと一緒に。
その瞬間、心の中でわずかに一瞬息をのみ、触れたそれを静かに噛みしめながら、ゆっくりと見渡していく。内側も外側も。
あるときは、まだ外側のこんなところに分離を見ていたことに気づかされ。
またあるときは、すべては夢だと教えられ。
そのひとつひとつが、この世界を、肉体の目ではなく、古くて新しいもうひとつの目で見ることを可能ばかりか不可避としているのかもしれません。
肉体の目は、善悪を映し出し、植え付けられた恐れを想起させるため、その世界は深刻さを語りだします。
古くて新しい目は、ここにあるもののすべてが神の性質を帯びているという真理を映し出します。
わたしが去年の夏に触れた景色は、この世界のあらゆるものが、生命の光によって存在しているというものでした。
生命とは神のことで、わたしたちの全創造を担っている光であることは、まごうことなく確かでした。
それは理屈なしに、触れた瞬間、瞬時に理解認識され、見たこともないほどに美しく奇麗な光が放たれていました。
そこから除外されている存在は一切なかったのです。あらゆるもののすべてでした。
そして、優劣も一切ありませんでした。すべてが一様に同じ光を同じように浴びて輝いていたのです。
こうして今も思い出すと、涙が出るほどにその光景は、圧倒的でいて輝かしいほどの神聖さに満ちていました。
古くて新しいその目を覆い隠すと、長年慣れ親しんできた優劣と善悪と恐れのある世界があることを知っていますし、認識もできます。
生まれながらにこの社会に肉体を持って生きるわたしたちが認識している世界は、この肉体の目で見た世界であることもよく知っています。
ですから、長い間真理を探究してきた者でも惑うものです。
ですが、毎日瞑想し、真理の言葉に触れ、恩寵に触れ、内なる神に触れれば、どちらの目が真理を映し出しているかは、問う余地もないほど鮮明です。
そして、一度や二度三度それに触れても、そこに座り続けること。
真理を継続し、また、例外なく見続けていくということは、持続的な神への献身とも言えます。
肉体の目で見たものの多くは、すぐさま渡されます。
それは、見たくないと蓋をするのでも、無視するのでもありません。
肉体の目での解釈は無価値だという認識と共に、真理に渡されます。
わたしにとって、あの生命の光の光景が、真理への盤石な礎となっていることは確かです。
最後は、どちらを選択するか。どちらを選択したいか。真理を見たいか否か。それだけです。
それだけが、あなたにとっての現実となるからです。
冒頭に書いた、これまでの世界が刷新されていく新たな段階をゆっくりと味わいたく、毎日を過ごしていますが、
神聖さは増しながらも、深刻さと距離ができたかわりに、この世界はもっともっとらくに、じゅうぶんに楽しめることに気づきます。
ブログにも、色んなこと、例えば、私はホロスコープ(アストロロジー)をどう捉えて真理の探究に活用しているのかや、昔の感情を手に取るのに意外にも役に立ったドラマの内容の話し。去年嗚咽しながら一気見をした、個人的に一番心に刺さった作品となったアニメの感想も、書きたいなと思っています。
また、数年前に作ったこのHPと、今のわたしとのずれも感じているので、少し先になりますが新しいHPを作るか、もしくはブログだけのサイトを作るかもしれません。
しばらくはこのままですので、またお知らせします。
また書きます。
感謝をこめて
Mari
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