分離という幻想
自分と他者の感情-そのどちらを大切にしたらいいのか。
この問いを持った日のことを覚えています。
わたし自身が悲しみを感じるのは嫌だったし、避けたかったし、もちろん不快なことでした。
ですが、それと同じくらい、他者-特に身近な人や関わりのある人、同じ空間を共にする人が、悲しみや怒りというネガティブな感情になることは、わたし自身にとっても、嫌で避けたくて、何より不快なことでした。
若い頃は、はっきりとその自覚が無い中でも自分の性質を長所にして、活用して乗りこなしながら、社会をうまく渡っていたように思います。
その問いは、いつの間にか胸のなかにしまっていましたが、心の探求をはじめてすぐにまた思いだされました。
それでもそれは、どこかで出口のない永遠の問いのようにも感じていて-。
ですが、こたえはちゃんとあって、その報せは、私のマインドに解放されるような安堵感と、覚悟のようなものを運びます。
それは、わたしたちは分離していない-。
その真理にたどり着きます。
わたしたちはひとつです。
見かけ上、分離しているかのように、わたしがいて、あなたが居ます。
目に見えるものはなんでも、個別で分離していて境界があるかのように形をもちます。
ですがわたしたちは、真に離れたことはありません。
物質世界である人間的風景のなかで、それが容易に知覚されることはありませんでしたが、いつもそれは、心のこの世界への投影というシステムで、多彩なストーリーにのせて、わたしたち自身を映し出し見せてくれます。
よく見ればそれは、わたしとあなた-ふたつの不快があるのではなく、わたしのパイプを通るたったひとつの不快があるだけです。
あなたの傷も、わたしの傷です。
あなたの悲しみは、わたしの悲しみです。
誰かの痛みは、わたしの痛みです。
誰かの恐れは、わたしの恐れです。
逆もそうです。
そこには、分離という見かけに押し込め、閉じ込められた、自我マインドの根底にある究極の悲しみ、訴え、思いがあります。
分かりあいたい。分かち合いたい。理解されたい。理解したい。ひとつになりたい。ひとつであることを味わいたい。
その自我の究極の悲しみを、わたしたちはやっているんです。体験しているのです。
その骨組みを知って体験するのと、知らずに体験するのとでは、その味わいの深さに違いがあることでしょう。
智識として知り、いつもそばに置いて使っていくことで、それは深い気付きとともに、永遠に盤石な光の礎となるでしょう。
そうしたあとに感じる、自己を通るエネルギーは、寄り添いであり、癒しであり、肯定であり、浄化であり、贈り物であり、愛そのものです。
そこには、咎めも、争いも、攻撃も、防御も、罪も、後悔も、否定もありません。
ただただ、全てを包括する調和と完全さが在ります。
わたしはずっと、この世界の本質が知りたかった。
表側ではなく、それを成しているものを知りたかった。
自分という存在、人間やこの世界に存在するもの。その本当の姿。
そして、私たちの苦しみの理由や意味が知りたかった。
それはつまりは、生きるってどういうことで、死とはなんなのかっていうことにも繋がります。
そして、全ての人の存在意義、その根源にいきつきます。
一人残らず、全ての人です。
ひとつである。という真理に対して、ひとつなんだから。という気負いや責任はいりません。
傍らに置きながら、自分のなかでその真理が優しく、ひとひらずつ花びらが開くのを待ってください。
見かけを無視する必要はありません。
個々という形をとったこの世界だからこそ、織りなすことのできるストーリーです。
手に取ってください。よくよく見て下さい。
そこにあらわれる思いを、ひとつひとつ丁寧に見ていってください。
決して何も無駄なものはないことが分かります。
わたしたちは、この世界を通して自己を知ります。
それは、自分というパイプを通した世界です。
全ての人であり、魂が、共にそれを知り、味わうひそかな長い旅の過程にある-。
そう思います。
感謝をこめて
Mari
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